ドイツの森の散歩道 2020〜

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読書:硫黄島で米軍と直接交渉して多くの命を救った陸軍軍医の手記

読書『玉砕の硫黄島に行きた 混成第二旅団野戦病院』 :野口巌

 

第二次大戦末期の硫黄島、本土からの援護もほとんどなく玉砕する部隊が多い中、万国赤十字条約を根拠にアメリカ軍と英語で交渉して多くの部下と負傷兵の命を救った陸軍軍医の手記です。

 

 

 

 

硫黄島の戦いといえば、総指揮官・栗林忠道中将やバロン西の名前が有名ですが、この方のお名前は初耳で、大きな驚きと感動と共に読了しました。

 

 

 

 

 

野口氏は派遣先のマニラから本土に戻るも、すぐに硫黄島への命を受け、昭和20年1月10日に赴任。

2月16日アメリカ軍の艦砲射撃開始。18日からは上陸が始まります。

内地からの補給も支援もほとんどないまま、島に張り巡らせた地下壕の中での持久戦。

持久「戦」ですらなく、武器もほとんどないままバンザイ突撃か自決か、敵に殺されるか…

 

そんな中、野口氏はある人がこっそり話してくれたことを考えていました。

その人は、政府高官である兄が「日本はどんなに無理をしても昭和20年4月ごろまでしか戦争を続ける力がない。どんな形になるかわからないが、その頃には戦争が終わるだろう。このことを心得ていて、それまではどんなことをしても生き延びるように頑張らなければならない」と話していた、と。

 

確かに、硫黄島ではすでに内地からの補給もほとんどなく、味方の組織的攻撃も機能しなくなってきている。知人の話通り、本当に4月ごろには内閣が総辞職し、和平交渉が始まるかもしれない。ならば、ここで死んでは無駄死にだ。生き延びて日本の復興に尽したい…。

 

フィリピン時代は入手した短波受信機で日本の戦況が大本営発表と異なることはすでに把握していたし、島内でアメリカ軍が残したタイムなどの雑誌にも、フィリピンやその他で日本が敗走した詳細が書かれている。

 

とはいえ、捕虜になるのは子孫末代までの一族の不名誉、という戦時教育が骨の髄までしみている日本人。部下と負傷兵の命を無駄にしないように考えを巡らすうち、思い出したのが「万国赤十字条約」。

 

非戦闘員である衛生部員は敵中にあっても患者の診療を続けることができる。それは明治天皇が近代日本の義務として加盟したものである。ということは、昭和天皇の御心ということができるはずだ。

 

…野口氏はこう解釈し、将校達と協議した結果、米軍との直接交渉を試みます。

大きな紙に英語で「米軍に告ぐ。この地下壕は日本の野戦病院です。負傷者の診療を続けたくともみず、食料など不足し困っている。米軍は赤十字条約に則って、私たちを俘虜として扱わずに負傷者の診療を続けられるように保護、援助してくれるだろうか」と書き、投降勧告にくる米兵の目につくよう、地下壕の入り口に貼り出しました。

 

そして米軍はこれを了承し、交渉の結果、4月16日、野口氏を先頭に全員が安全に地下壕から出ることができたのです。

 

握手を求めてくる米軍将校のにこやかで紳士的な態度に驚くばかりでなく、夜には収容所の周囲には大きな電灯が明るく灯き、米軍キャンプからはジャズやその他の音楽がひっきりなしに聞こえてくる別世界。ジャズを聴き、キャンディーやチョコレートを食べながら戦争をしていた米軍と、水も飲めずに戦った日本兵。そのあまりにも大きな差を目の当たりにしたのです。

 

この後、野口氏は沖縄戦の負傷者の手当てに派遣され、復員後は一旦日本で働いたあと、南米のパラグアイボリビアで10数年にわたって現地の日本人の診療や地域貢献をしていたそうです。

 

戦時下の硫黄島赤十字条約に則った権利を主張し、米軍と直接交渉をするという野口氏の勇断。「4月まで生き延びろ」という情報をえていた事、味方を説得する人徳、得ていた信頼、そして交渉を可能にした英語力。暗く熱い地下壕に籠り、飢えと喉の渇きで極限状況の中での知性と判断力。

 

こんな素晴らしい日本人がいたということ、ドキュメンタリーや映画、教科書題材などでもっと広く知られてほしい、知られるべきだと思いました。