先日、久しぶりに「風と共に去りぬ」を読み返していました。
最後にレットがスカーレットに別離を切り出した時のセリフ。
「スカーレット。俺ももう45だ。45といえば、若い頃は馬鹿にして気にもとめなかった親類付きあいをしたり、名誉を求めたり、一身の安全をはかったり、しっかりと深いところに根を下ろしたものを尊重する年頃だ。」
南北戦争中の封鎖破りと投機で財を成したレット。勘当同然で長く疎遠だった故郷を訪ねるつもりだとも話します。時代も国も異なり、平均寿命も今よりずっと短いであろうに、この心境になったのがやはり「45歳」、ミッドライフクライシスと言われる年齢。もう20年近く読み返しているのに、この事に初めて引っかかったのは、私も年を重ねたせいでしょう…
ミッドライフクライシス、なんて、若い頃は都市伝説くらいに思っていました。
けれど。思えば私も、過去が懐かしく愛おしい気持ちがマックスだったのは奇しくも45歳ごろ。
40歳過ぎた頃から、じわじわ中学、高校、大学の友人達と繋がることが増え始め、中学のメンバー10数人と先生もご招待して、私の帰国時に同窓会をしたのが45歳。
学生時代から付き合って、卒業してから酷い振られかたをしてしまった相手から20年以上ぶりに全くの不意打ちで連絡が来たのも45歳。
私自身は、何十年も音信不通だった人に何のきっかけも無く「突然」連絡する勇気はありません。
自分が勝手に懐かしく思っても、相手はどうなんだろう…と逡巡してしまいます。
中学の友人達は、私が海外に出てからもずっとコンスタントに会ってきた仲良し3人組から自然に広がった輪。
10数人という、全員と話せる程よいサイズ、割と親しい人ばかり集まった上、先生もいらっしゃったのですっかり気分はすっかり中学生。
男子も女子も昔のあだ名で呼び合い、男子が雨の日に「泥んこサッカー」でたけし城バリにぐちゃぐちゃになっていたり、授業中に飴を舐めて出席簿で叩かれたりした話に大笑い。ああ、私はここから育って来たんだ、と自分の根っこをしみじみ感じました。
ありがちですが「実はあの頃好きだった」なんて告白にセンチメンタルになったりもして。
みんな、それぞれに山も谷も経験しながら、元気で笑顔で集まれたことがとにかく幸せで嬉しくて、その後もしばらく活発なやりとりが続きました。
元彼(という言い方は、なんとなく好きではないのですが…)からの連絡には複雑な思い。共通の友人グループの同窓会や友達の友達と繋がった…などといった前触れも繋がりも理由もなく、ある日突然、全くの不意打ち。
同級生の彼もやはりミッドライフクライシスだったのでしょうか。
正直「連絡をもらって嬉しい、懐かしい」というよりも、動揺の方が大きかった。しっかりと封印して屋根裏の奥にしまっておいた箱がある日突然玄関先に置かれてこじ開けられているのを見て茫然とするような。
私が辛い思いで過ごした頃に生まれた人が、もう立派な社会人になるというほどの時が過ぎたというのに…。
ただメッセージの往復があっただけで、自分でも驚くほどしばらく暗澹とした気持ちが続きました。
他にもいくつかの再会があった、45歳前後。
相手との思い出のすり合わせ、記憶の食い違いや自分は覚えていない場面に笑ったり、切なかったり。あの頃ぼんやりと思い描いた未来から遠い場所にいる自分。こうできたんじゃないか、ああすれば良かったんじゃないか…。再会に自分の道のりを振り返り、かつては同じ地点にいた友人達のライフストーリーに、様々な感情が胸に渦巻きました。
そして数年が経ち、アラフィフの今。
再会に心が揺れた時期は過ぎて、そういう意味では落ち着いてきました。
というか、いよいよ「夫の定年」や「子供の独立」「親の加齢」「自分の老後」「健康問題」といったことが差し迫って来て、とにかく自分の毎日の暮らしを元気で楽しく、ということにひたすらフォーカスして過ごしています。
…そして、そんな自分も悪くないわ、と漸く思えるようになりました。